カラフト伯父さん
演出 鄭義信
出演 伊野尾慧 升毅 松永玲子

ひどいこと、なにかをめちゃくちゃにするようなことをすると、わたしたちは神様から遠ざかり、親切なこと、思いやりのあることをすると、神様に近づきます。神様にくらべ、わたしたちはつかのまの小さな存在で、ふたつの目という小さな窓から世界を見ているだけです。でもおかしなとに、神様のことを考えるとき、自分たちがちっぽけだとは感じません。少なくとも、ゆううつになったり、がっかりしたりすることはありません。その逆に、高い山のてっぺんに登り、真っ青な空に太陽がキラキラと輝き、四方八方を遠くまで見とおせるように感じられませす。世界は思っていたよりはるかに大きいことに、そして、たぶん、自分は思っていたより大きな存在なのかもしれないことに、気づくのです。

この作品の主人公徹くんにとって、カラフト伯父さんは神様のような存在だったんだろうなと、このスパフォードの言葉を思い出しました。「あんたは俺のヒーローやった!なんでも知っとう優しい頭のええおっさん…!」と徹くんが絞り出す声でカラフト伯父さんに告白するシーン。早くに母を亡くし、阪神大震災が起き、近所の顔見知りがその中で亡くなり、自分だけが逃げて生き残ってしまった罪悪感と絶望。何度助けてくれと叫んでも助けに来てくれないヒーロー。育ての父も震災の二年後に亡くなってしまう。自分の周りの大切なものを奪われ続け、ついに徹くんは大好きだったヒーローをひどく憎み、めちゃくちゃにして、ヒーローに近づくことをやめ、心を閉ざしてしまう。育ての父から継いだ鉄工所は休業状態で、メッキ工場で御用聞きのように働き、自分の世界をわざと矮小化させ、死なないために生き、死ぬ未来に向かって生きてる。

3人舞台で、場面転換なし。

カラフト伯父さんは、再生の物語。再生する機会を見失ったまま手を差し伸べてもらえなかった青年が、一歩を踏み出すまでの物語で、色々な仕掛けが直球。奇をてらった演出もなく、演者が愚直なほどまっすぐ向き合わないと進めない舞台。そんな印象です。

この舞台は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をモチーフにしたものがたくさんあって、最後の最後でハッとしたのは六場の悟郎と仁美ちゃんが東京へ帰るシーンでの雪。地震でヒビが入ったまま修理していない鉄工所の屋根から雪が舞い落ちる印象的なシーン。一筋のスポットライトを浴びて雪が舞い落ちる演出がとても美しいんだけど、悟郎が言うような鎮魂でも抵抗の雪でもなく、最終日に観たそれは雪というより、星がきらきら降っているようで、そのあとに汽笛が鳴る音響も含めて、銀河鉄道の夜といえば思い浮かべる文庫本の装丁を思い出しました。彷徨っていた3人が自分たちの力で動き出したのを見届けて、銀河鉄道は違う場所へと汽笛を鳴らして出発する、そんなシーンに見えました。幾度となく登場する列車も、どこか遠くへ行ってしまいたい、消えてしまいたいという登場人物の視点が自分たちを軽んじてるというか、自身の存在の軽さを思い知るようで、とても淋しかったな。
劇中の毛布も重要なシンボルで、夜の暗闇でのフラッシュバックに恐れて、ひとりの部屋で眠ることが出来ない徹くんが、毛布を身体に巻きつけているのは自己防衛の表れ。その息子に拒絶された父はその空っぽの毛布を苦しい顔をしたまま毛布を抱きしめるしかない親子の歪み。震災を経験した人間とそうではない人間の歪み、苦しみから助けて欲しいけど助けて欲しくない歪み。五場での慟哭の後の六場でその毛布を軽トラから取り出し、徹くん自身が2階のベランダに干したことも銀河鉄道の夜と繋がっていて、ジョバンニが切符を手にして無事列車から降りたように、毛布を手にして列車を降りたのが徹くん。毛布を干しながら、カンパネラに語りかけるシーンのとき、徹くんは憑き物が落ちたような晴れやかな表情で語りかけている。ジョバンニと違ったのは、徹くんはカラフト伯父さんという道しるべを見つけて、列車から降りたこと。
どうして、徹くんは列車を降りられたのだろう?

徹「あんたが来るのを待ち続けてたんや!」
悟郎「カラフト伯父さんやっと登場いたしました!(中略)徹のために今夜やって来ました!」

五場でのカラフト伯父さんに蓋をしていた激しいい想いをぶつけるシーン。このやり取りは色々な解釈があるだろうけど、徹くんとカラフト伯父さんは、ここで父と息子の関係になったのではないかと、観劇しているうちに考えるようになりました。『ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです』というのは、銀河鉄道の夜の一文で、自己犠牲ともとれるこの言葉が、劇中によく出てくる「ほんたうのさいわい」と果たして繋がるのかと考えると、カラフト伯父さんのそれと徹くんのそれとは性質が違っているように思います。カラフト伯父さんの指すほんたうのさいわいとは、自己犠牲を伴う自己実現の話で、徹くんの指すほんたうのさいわいは、自分が失ってしまった家族、友人、恋人との日常的な幸福を表しているようにみえます。
ほんたうのさいわいとはなんなのか、それをこの舞台でずっと投げかけている。
カラフト伯父さんは自己破産寸前で、息子のところにすがりに来た訳だけど、神戸までやってくる間、一度も死にたいと思ったことはなかったのか。借金取りから逃げ回る生活をしていたそんな最悪な状況でも、親にとって子どもは自分が生きてることを一番実感させてくれる、肯定させてくれる大きな存在。だからこそ、父は息子のところに会いに来たのではないか。お金の無心に来たどうしよもないお父さんだけど、息子の顔を見てもう一度やり直すチャンスを掴みに来た。
対して、子どもにとって親は自分の価値を示してくれる一番の大きな存在として大きく立っています。五場での慟哭の中、カラフト伯父さんが徹くんに発した言葉は短いものだったけど、「お前は生きていていいんだよ。お前はちっぽけな存在じゃないんだ!」と投げ説いているようでした。生きていくことの肯定。自分が存在する価値を認めてくれる、生きている価値を見出せることが幸せに繋がる。うずくまって1人で身体を小さくして泣くと息子を静かに抱きしめる父親、生きていくことの肯定で親子が繋がった、そんな場面だと感じました。だから、徹くんは列車を降りたのだと。


まあ、はじめて、ああやってお芝居がっつりの舞台をやらせていただいて。まあ、なかなか、なんていうですかね、本番はじまってからも悩むこととか色々ありましたけども、ほんとに、ぼくがはじめてストレートプレイという舞台をやらせていただく中で、あの作品で、もちろん共演者さんもあの2人でっていうのがはじめてで、ほんとに、この作品に出会えたことがほんとによかったなと

先週(5/16)のらじらーでいのおさんが舞台どうだった?という問いに対して話した内容の一部ですが、自分の内面をあまり語らないいのおさんが、こうして言葉で「この作品に出会えてよかった」と語ったことがとにかく感慨深いです。日に日に変わっていく姿を(時には驚くほどのスピードで)観る事ができて、こんなに嬉しい2週間はなかった。特に、後半になるにつれて、徹くんという人物がいのおさんの心と共鳴しているというか、演じているといより、心が深く繋がっているような芝居で格段に見違えてました。特に三場の怒りで身体が震え、収まらない負のエネルギーの出し方が、いのおさんが徹くんと格闘し、向き合った結果、直情的に心が突き動かされるような爆発で本当に素晴らしかった。こうして言葉にすると零れ落ちそうだけど、カラフト伯父さんという舞台で新しい風景を見ることができて本当に本当に嬉しかったです。
では、大阪へ行ってきます。